私は、昔、よく日記を書いていたのですが、最近なかなかつけることがありませんでした。
でも、人生の節目において、過去を振り返ることが度々あります。
これから、少しずつ、現在の目で過去の自分を振り返ってみることにしました。
今では、男女共学になってきたので、女子高というのも少なくなったのではないでしょうか?
その頃、中学校でもそれほどモテなかった私は、女子高というのが憧れであり、女の園という感じでした。確かに・・・宝塚てきな先輩もいて素敵でした。そして、男子の目もなかったのが幸か不幸か、自由な活動をさらに自由にしてくれたものと思っています。窮屈な感じがするけど自由なところもあり、女子高は嫌いではありませんでした。しかし、一方で、多感な時期に男子高生と話すこともなかったので、恋愛って、お付き合いってどうなんだろう?どんな人と付き合うのかなあ?自分はいつかできるのだろうか?と恋愛妄想は膨らんでいきました。
大学は志望校に滑ったので一浪しました。予備校に行きましたね。予備校は共学だから、始めだいぶ違和感を感じました。アットホームな予備校だったので、主任の先生が男女を隣同士の席に配置したのです。先生は、予備校では恋愛禁止令を出していました。特に、恋愛すると志望校に落ちるからというものです。確かになあ~でも、年頃の男女でしたから意識はしてどきどきしていたと記憶しています。私の隣のM君は、隣の男子高から来ていたのですが、おしゃれな子でした。その当時の流行りのものを粋に着こなしていました。おしゃれ過ぎて、なぜか私が恥ずかしいと思ったものです。自分はそうでもなかったので。また席替えの度に、となりが気になります。でもかっこいい子だと嬉しい!というのが本音でした。私は、意外に面食いなんだ!と思いました。
大学はどうしても国公立に入るか、私立でも地元の大学に!というのが父母との約束でした。うちは金銭的に豊かではなかったので、今思えば大学に行くだけでも有り難かったのです。
母はその性格と、私が一人娘だったこともあって、何かと過干渉でした。子どもにとっては口うるさい上にとってもしつこいと感じたのです。母がわずらわしくて、母のいる家から早く飛び出そうと考えていましたね。ですから大学受験はいいきっかけだったと思うんです。できたら県外に行きたい!こう考えていました。そして浪人することになったのですが、ここまでくると、さすがに入れる大学なら県内でも県外でも構わなくなりました。浪人した友達が次々に県外や東京を受験することになりました。私もせっかく浪人したのだからと母を説き伏せ、関西や東京の大学を受験することになったのです。
入学した大学は・・・・なんと東京を超えて山梨県の大学でした。母はなんと、合格通知を隠してしまい、なんとか地元の大学に入れたかったみたいです。しかし、私は激しく抵抗しました。そして最後にはまあ公立で教員養成系の大学だったし、授業料が国立よりも安かったこと、卒業したら必ず帰ってくることを条件に入学することが出来ました。田舎の僻地でしたが、親にとってはいきなり都会で危ないところよりは、のんびりした田舎が安心だったのかもしれません。私にとっては、想像以上に僻地だったので、カルチャーショックでした。あたりは山と田んぼと静かな町と大学。果たして学生はいるのか??不安が募りました。アパートのような下宿部屋を借りましたが、入学までの数日間が恐ろしく長かったのを今では懐かしく思いだします。
晴れて大学生となって胸躍らせていたのですが、何かが違う!と感じたのは、それから3週間もたたないうちだったと思います。なんかね・・・・よく言えばまったりしてるというか、悪く言えば、あ~こんなところきちゃってね~本とは第二志望だったのだよね。という雰囲気でした。確かに推薦で入ってくる子もいたのですが、入試の二次試験が他大学とずれていた為に滑り止めで受験した子も多かったのです。そんなこんなで、期待と倦怠感が入り混じったような雰囲気のキャンバス生活がスタートしました。しかし、ここで意外な展開がありました。小さな田舎町だったので、遊ぶところもなかった学生たちは、友人の下宿に遊びに行くことになります。数人も集まれば、この大学にきちゃった自分のこととか、大学や下宿の秘密とか、付き合っていた高校時代の彼氏彼女のこと、キャンバスで気になるあの人の話題とか、はたまた人生とは・・・・・まあ、よく話したものです。明日が土曜や日曜ともなると、徹夜で語り明かしました。お酒もそこそこ飲んでみました。
大学生活にも慣れてくると、いろいろなサークルや部活、同好会の誘いがありました。私はせっかく山梨県に来たことだし、屋外リンクが可能なスケート!をしようと思いました。その時は渡辺絵美さんが引退して、富士急行ハイランドのリンクでショーをしたりしていたのです。また、社会学の自主ゼミにも入ることができて、自分でテーマを決めて研究し発表するという、学生らしい活動にはまっていきました。スケートにゼミ活動に学生自治会にも所属し、なんか充実してきたなあと思った1年目と2年目でした。すっかり調子に乗っていました。まあでもそれもいい思い出です。そんなこんなであちこち飛び回っていたら、気がつくと同級生たちが、彼氏を作って付き合っているではありませんか!あれれ、私3年生にもなるのにちゃんとお付き合いした人いないなあと思ってしまいました。ちょっとつきあうことになっても横恋慕があったりで、うまくいかない。内心焦りましたね。
それは3年生の秋のことでした。学生自治会は選挙の季節でした。そのころ私は執行委員をやっていて、自治会副会長に推薦された男子の応援をすることになったのです。自治会選挙はたいてい、信任投票になることが多くて、公約と、とにかく認知されることが大事でした。それで当時は二人でほとんどの下宿を回って、選挙前の挨拶をしてまわったこと覚えています。2週間くらいでしたかね。初めは下宿回りが面倒でしたが、だんだん反応が出てきて楽しくなってきました。それがきっかけで、話も弾み、選挙後その人と付き合うことになりました。それがのちの夫でした。
付き合った彼は、クールで物静かでした。哲学書やクラシック音楽や詩にも詳しくて、年の割にずいぶん大人びていたのです。少なくともその時はそう思っていました。それで、あまり哲学とか興味がなかった私も影響を受けて哲学の本を読むようになったりしていきました。それにクラシック音楽に詩・・・・あ~アカデミックすぎる!スノッブですね。参りました。その上、わりとイケメンでした。イケメン系に弱い私は、完敗です。面食いだったのです。それが私の弱点でした。でも当時お互い好きだったので、一緒にいることが多くなりました。
4年生になると、そろそろ卒業のことも考えるようになりました。私は地元に帰って教師になろうとしていました。彼は・・・・彼も地元がこっちだったので、卒業後戻るということでした。この大学は全国から集まってくるから・・・・地元が離れていると、郷里に帰ってしまうので結婚までいたるのが大変なのです。でも、私たちは幸運なことに宮城県。彼は卒業が1年後でしたが、戻ってきます。そんな卒業後のことを、雪のちらつく12月のキャンバスを見つめながら、外で話し込んでいたこと懐かしく思いだします。卒業後もずっと一緒、それが私を安心させてくれました。
そんな仲の良い二人でしたが、いつだったか、こんなことがありました。私が彼と付き合う前に、片思いをしていた人がいたのです。同じゼミで他の学科の男子でした。その彼や仲間と一緒に撮った集合写真があったのです。そして、私は片想いの子の部分を切り取って定期入れみたいなものに貼り付けていました。それは知らない間になくなっていてそのままでした。しかし、なんとそれが後に落とし物として届けられたんです。そしたら、たまたまそのことを知っている人が彼に、この人は私の片思いだった人と伝えたのですね。そしたら・・・・彼がめちゃ怒りだして、なんとタバコの火を私の手に押しつけたのです。もうびっくりしました。何てことするんだ!嫉妬です。でもね、当時の私はそれだけ好かれているんだと思っていました。恋は盲目なのです。今の自分だったら、仕方のないことですから、過去は過去、許せないなら別れても仕方ないといっていたはずです。
そんなこともありましたが、恋に盲目だった私は、ちょっとすると忘れて、また普段通り付き合っていました。夏は彼の地元に近い海岸に遊びに行きました。風光明媚な場所で私はうっとりでした。彼は大きなおにぎりをたっぷり握ってきてくれて「これ食え~!」って言うので、う~ん、意外と家庭的!、料理も嫌いじゃないんだな~と勘違いしました。その日は1日のんびりと浜辺で過ごして、泳いだりしました。あれ以来海岸で泳いだことってなかったので、思い出に残っていて、そしてとにかくそのおにぎりが恥ずかしいくらい大きくて黒かったので、良く覚えています。
私が大学4年生だった頃、この大学で関東教育系学生ゼミナール大会が開かれたのです。関東の教育系の大学の自主ゼミの大学生が300人ほど集まるのです。そしてなんとまあ、私は、開催実行委員長になってしまいました。事務局はしっかりした先輩たちが固めていたので、私が表に立つことになったのです。彼に一応相談したら、渋い顔をされました。おまけに、自分と過ごす時間が少なくなるからと言われたのです。私はめったにないイベントでもあるし、力を入れていた自主ゼミとその大会が自分たちの大学で開かれることの素晴らしさを話ました。そしたら、渋々ですが、まあいいやといってもらえたのです。今考えれば、学生なのですから、そういう活動も自由におこなって構わないですよね。でも、彼に許可をもらわなかてはならないことや渋々の返事に、とても不安を感じていたのです。
そして、なんとか無事ゼミナール大会を迎えることが出来ました。2泊3日のイベントです。彼も写真記録撮影係を引き受けてくれました。これは大会中のスナップ写真をとって、ゼミ速報という大会中、朝に発行する新聞に載せる写真です。そのほかに大会終了後も記録として残すことになる重要な役目なのです。私は、開催の何日も前から準備に忙しく、また開催当日を何とか終えて、明日の会議や準備をしていました。そしたら、彼が会議中の私を外に呼びつけて、いろいろと言うのです。何を言われたのかはっきりとは覚えていませんでしたが、もう俺は記録係はいやだ、私が他人と過ごす時間が多くて嫌だ、そんなことだったと思います。しかし、もう大会は始まったのです。明後日は終了です。もうすぐ終わるので、彼には係を全うしてくれるよう何とかお願いしました。しかし、翌日もその次も彼は、仕事を放棄して・・・・いなくなってしまったのです。私は途方に暮れるも、仕方ないとあきらめました。
そんなこんなで、大変な大会運営となりました。なんとか終了しましたが、大会後も彼の態度が冷たかったのです。私は心配をかけたのが自分だったのだろうと一応謝ったのですが、腑に落ないものが残りました。特に最後の晩、彼は雲隠れしていたし、私は1年ぶりに関東の大学の自主ゼミ仲間たちと再会していました。すると、どこからともなく彼が現れ、また私を呼びつけました。そして「あんなやつらとと付き合うな」というのです。めっちゃ頭にきました。なんて情けない人だろう!私の交友関係を制約しないでほしいと思いましたね。それまでも、私がいろいろな人と関わると、悪いことを言ってきました。今思えば、私の交友関係だけが広がって、寂しく、嫉妬などが重なり、彼も苦しかったんでしょう。
そして、いよいよ卒業が近づいてきました。彼は1学年下なので、卒業はまだです。卒業すればもうこの大学や友達ともお別れです。授業が終わり2月末、卒業式、引っ越しまで時間がありました。彼はもうお互い春休みは、宮城県に帰って過ごしたい言っていました。とはいえ、私にとってはもう大学とも全国に散っていく仲間とも半永久的にお別れです。3月の後半まで残って、別れを告げたい友達などたくさんいました。彼は、それも気にいらなくて一人で実家に帰宅していました。そして私は引っ越しの準備などしながら、友達ともさよならをしていきました。全国から集まって全国各地に戻り、地元で教師になる友達も多かったです。卒業式に彼の姿はありませんでした。引越しの時になって、ようやく戻ってきました。でも不思議なことに私は彼と離れていても寂しくなかったのです。もう春の訪れも近かった3月末のことでした。
卒業して教員の免許は取得したものの、採用試験の二次に通らなかったので、春から、英語の専門学校に半年通うことにしました。そして、その後、また夏がめぐってきて、採用試験があり、一次試験は通るものの、二次試験で落ちましが。その時代はコネがないとなかなか女性の採用はされないとアルバイト先のある役場で聞いて、がっかりしたのを覚えています。それならそれでいいと思いまして、子どもの英会話学校の講師や大人の英会話教室の先生もやりはじめました。教員免許をとるために母校で実習を行った時、40人て大変だなあと思ったものです。でも少人数での教室は幼児や大人が相手でしたが、目が行き届いました。私がここで興味を持ったのは、親と子の関係でした。英会話教室にくる子供たちやその親御さんに接するので、親子関係や子どもの態度や性格に触れることが多かったのです。学ぶことも多かったですね。
彼は1年後に無事卒業して、地元に戻ってきました。再会したときは、学生時代の嫌な思い出も薄れていて嬉しかったですね。私も、相手はやはり彼しかいないだろうと思っていました。夏休みには、福島県に旅行にも行きました。二人とも23、4歳になっていましたが、その前後に母から世間体があるから旅行だなんてとかうるさく言われました。私は世間体って誰のこと??って感じでした。母はやたらと世間体に気にする人でした。そういう母がうるさかったので、できたら早く結婚したいと思っていました。しかし、彼も正規での就職がまだだったので、結婚はまだまだ先のことでした。
私が3年くらいたったころに、いくつか就職試験を受けたりしたのですが、東京で受けたとある国際的な美術館の試験が3次試験で落ち、落ち込んでました。しかし、その後別のところで受けた語学系の仕事につくことができました。JICA関係の仕事です。海外からの研修生のサポートや通訳を行うというもので、すぐに東北での研修に同行することになりました。電力関係の仕事でしたので、研修員が来日するまでの間に、基礎的な電力の勉強と、その英訳、研修員のプロフィールを覚えたり、東京での総合プログラムや視察・研修先の情報入手など、慌ただしくなりました。電気や電力の専門的なこと、どこまで勉強してもわからないことだらけで不安でした。しかし、日程はせまりとにかく、やらないといけません。どうなることか・・・・・
さて、そのうち、各国から12名の研修員が東京の研修所にやってきました。私はその3日目からのアテンドです。私の仕事はコーディネーターといい、研修先とJICAと研修員を結ぶ橋渡しもしていました。通訳だけではありませんでしたが、通訳も大きな割合を占めていました。研修員がやってきた国は、ブラジル、アルゼンチン、マレーシア、パキスタン、トルコ、インドネシア、タイなど発展途上国がほとんどです。母国語が英語ではないので、皆さんの英語はくせがあるのです。それを理解するのが一苦労でした。マレーシア訛りの英語、ブラジル訛りの英語、トルコ訛りの英語、インドネシア訛りの英語、タイ語なまりの英語・・・・・・いろいろな英語がいっぱいありすぎました。とにかく、初めて出会って、話して、そして仕事先で通訳となると理解に苦労し目が回りそうでした。しかし、彼らと一緒に2週間過ごし、だんだんと慣れてくると、多少英語がわかりにくくても、言っていることが分かってくるから不思議です。その人の性格や興味、関心がわかったくるので、こういうことを質問しているんだなあと理解できるようになってきたのです。
仕事も、そんなこんなで、楽しく、困難を感じながらも張り切っていました。研修員や受け入れてくれる研修先の先生方にも、恵まれて毎日充実していました。研修コースによっては、出張が多くて、大変でした。毎晩、通訳の予習に追われたりすることもあり、疲労が抜けない日が増えてきました。いつだったか、母とちょっとしたことで言い合いになりました。その夜、寒気がして震えが止まらなくなり、熱を出して救急車を呼んだこのです。その翌日はまた出張だったので、同行の先生に連絡して急きょ休みをもらいました。この件以来、出張の前夜になると不安に襲われることがよく出てきたのです。彼と休みの日に逢っていても、疲労が溜まってだるいのでなかなか元気が出ませんでした。
ある日のこと、出勤しようとしてバスに乗ると、得体のしれない具合の悪さや、お腹の調子も変です。。どうしたんだろう? 何度かそんなことがあり、途中で下車することもありました。調子悪いのかなあ??そして・・・・・次は、帰宅の電車に乗ろうとすると、駅に来る度になぜかお腹が痛くなってきます。電車に乗ると、動悸がしたりして冷や汗が流れます。これはまずい、疲労がたまっている!と思って、気分転換にウオーキングに励んでみますと、これまたどっと疲れが出てきました。
研修コースの最後に研修員を見送ってやれやれと、バスに乗ったところ、動悸とめまいと不安感でいっぱいになりました。タクシーで病院に向かいました。先生に「疲労だから」と言われて注射と飲み薬を出されました。数日して、出かけるとまた、出先で同じような症状になります。今後どうなるんだろうとほんとに心配になりましたね。こういう病気ってあるんだろうか??その後、医学書などで調べたら、不安神経症とか、パニック障害と出てきまして、ぴったりでした。
ある日のこと、出勤しようとしてバスに乗ると、得体のしれない具合の悪さや、お腹の調子も変です。。どうしたんだろう? 何度かそんなことがあり、途中で下車することもありました。調子悪いのかなあ??そして・・・・・次は、帰宅の電車に乗ろうとすると、駅に来る度になぜかお腹が痛くなってきます。電車に乗ると、動悸がしたりして冷や汗が流れます。これはまずい、疲労がたまっている!と思って、気分転換にウオーキングに励んでみますと、これまたどっと疲れが出てきました。
研修コースの最後に研修員を見送ってやれやれと、バスに乗ったところ、動悸とめまいと不安感でいっぱいになりました。タクシーで病院に向かいました。先生に「疲労だから」と言われて注射と飲み薬を出されました。数日して、出かけるとまた、出先で同じような症状になります。今後どうなるんだろうとほんとに心配になりましたね。こういう病気ってあるんだろうか??その後、医学書などで調べたら、不安神経症とか、パニック障害と出てきまして、ぴったりでした。
そうだったのか・・・・・・妙に納得しました。その後、仕事が一段落し3ケ月の休みに入りました。しかし、以前にもまして、なぜか疲労感や不安感、悲しみ、不眠が出てきました。散歩しても気晴らししても、彼とあっていても気が晴れません。しばらく我慢していましたがついに限界きました。そこで、パニックのこともあったので、心療内科のある病院を受診してみることにしました。先生の問診や、出されたシートに記入してみると、なんと、うつ状態と診断されました。え~私がうつ!?ショックでした。軽い安定剤と抗うつ剤を出されました。安定剤はいいのですが、当時の抗うつ剤、私には副作用を強く感じてしまいました。三環形、四環形の抗うつ剤が中心でした。飲んでみては、眠気が強く出たり、具合悪さが出たり、いろいろと悩まされました。薬を変える度に病院まで通うのがその度に辛くなってきたので、先生に申し出て、入院をすることになりました・・・・・・
先生に入院を申し出たとき「う~ん、入院といっても、投薬治療や寝ていることが多いんだよ」と言われました。入院生活は当時6人部屋でした。詳しくはかけませんが、話しを聞いてみると。人間関係のもつれやとらえ方によって、心身が疲れ果てた人が多かったようです。夫婦関係、嫁姑関係、恋愛関係のこじれから眠れない、お腹が痛んだり下痢をするといった過敏性腸症候群の方から、頭痛や吐き気、斜頸、気分障害などでした。こころに元気がなくなってしまい、身体にも症状がでるといった病状は心療内科の分野です。患者さんは意外にもアラサーが多く、同年代!時間はたっぷりあったので、深入りしない範囲でいろいろな話をしました。悩みは・・・みな深かったようです。今思うとなんらかの板挟みになり、我慢を重ね、そして自分で決定できない状態にいると、人間って症状がでてくるんだなあということでした。
入院中の規則正しい生活や、先生のサポート、投薬のフィードバックがスムーズだったので、1ケ月目で、だいぶ良くなってきました。同室の方々も、1ケ月から2ケ月くらいで退院していきました。私は自傷行為で入ってきた若い人と一緒に「認知療法」というのを先生から受けることになりました。これは、簡単にいうと、「自分の思いこみかもしれないもの」を脇に置いて、別な角度からこう考えられないかという見方をしてみることです。早速、ノートを近くのお店で買ってきてやってみました。先生は自分で「私のことどう思う?」ってきかれました。私は「やさしいけど、ちょっと厳しいかな」と思っていたので、そう言おうとしたのです。その時、隣の子がなんとあろうことが「・・・ハゲ!」と言ったのですよ。先生がなんと反応したのか今は覚えていませんでしたが、私は先生が薄いけどハゲているとは全然思えなかったので、意外に思いました!ばかばかしいかもしれませんが、どこからはげで、どこからそうじゃないとかっていうのは微妙だし、人それぞれの基準があるようです。自分では気にしている思いこみもまた、他人から見たら全然違うようにとらえられているのですね。
2ヶ月後、なんとか退院して家で静養することになりました。元気になったら働いてもいいのですが、ハードワークで疲れ切ったので、その仕事に戻ることに自信が持てませんでした。その仕事は好きでしたが、身体がついていかなかったのです。多分、精神的なストレスもあったのでしょう。私は基本的には、真面目で責任感が強く、でも言いたいことがうまく言えないタイプでもありました。そうすると、ストレスをため込みやすいのですね。とても不器用なんです。そんなことに気がついていました。
退院後の1年は調整期間でした。良くなった!とは言えませんでしたが、症状も軽くなってきました。でも・・・・・働いてまた症状が悪くなるのが怖い!自分でも宙ぶらりんの状態でした。
彼はというと、入院中も毎週末、お見舞いに来てくれていました。彼の親戚もうつになったことがあって、ずいぶん支えになってくれていました。彼とはいつか結婚すると思っていましたから、それがそろそろだと思えてきました。
1年経ってみて、思い切って働くこともできず、休むこともできず、悶々と過ごしました。
そして、気がついたら、30代に入っていました。友人はとっくに結婚して、子育てもしています。20代の頃、結婚する気はあるのか?と彼に聞かれましたが、就職がうまくいかなかったので、それどころではなかったのです。私は結婚するなら・・・・今だ!と思いました。彼に話すと・・・・・意外にも、渋い顔をされました。「結婚かあ?」「そんな身体で結婚?結婚してどうするんだ?働くのか?主婦をするのか?」と聞かれました。私は体が慣れるまで、家のことをするといいました。ここで結婚しなかったら、一生結婚はできないだろうと思いこんだのです。「11年も付き合って、結婚しないというのはないよね!」と彼に迫ったのです。
そんなこんなで、彼も結婚へと踏み切ることになり、彼はうちの両親に挨拶にきました。それから、結婚へ向かって着々と準備が始まりました。結婚式は・・・・二人の金銭的なこともあり、しないということになりました。彼はお金はあったのですが、先物取引でお金を失っていたのです。彼が話すのも嫌だったようなので私も詳しいことはわかりませんでしたし、聞くこともしませんでした。とにかくそういうものは注意かなと漠然と思っていました。そしてまず、二人で住む地域やアパートを探しました。家から車で7分のところにアパートを借りました。彼の職場までは50分くらいです。結納金とかそういうのもなしで、私は家具を買い、彼は家賃を払うということになりました。電話はどうする?当時は携帯もまだ普及してなかったので、家電をひくか?となりましたが、彼はいらないというので、私が負担することになりました。
アパートに引っ越しをして、初夜を迎えました。二人とも引っ越しでだいぶ疲れていたので、今日は・・・・もう眠ろう!ということになりました。そして、彼のお母さんからいただいた一組の羽根布団に寝たのです。二人で寝ると・・・・だいぶ温かい。暑いくらいでした。その上寝返りをうつと布団がやけに引っ張られる。その上カサカサしてうるさい。「うるさい。布団、ひっぱるよな~」彼もうんざりのようでした。私も慣れない羽根布団の暑さと、引っ張られてずれる感覚と、カサカサの音で1時間くらい、眠れずにいました。その夜は、高級羽根布団はどうも私たちにはあわないようだ、ということで一致しました。そして、明日から別々の布団で寝ようということになりました。次の日からいよいよ主婦業が始まりました。
結婚生活は彼に叩き起こされることから始まりました。「朝食は出勤の車の中で食べることにしているから、握り飯を作れ!」ということでした。あの黒い大きいおにぎりを思いだしましたが、そんなに大きくなくていいから二つで準備しました。アルミホイルに包んであげたら、「節約しろよ。新聞紙に包め!」と言われました。え?そこまで・・・・と思いましたが、握って新聞紙にくるみました。そしたら、帰宅後「ご飯が、新聞紙にくっついて、はがれなかった。食えなくて捨てたぞ!何やっているんだ?しっかり握れ!」と怒られました。え?何?そんなはずは??ということでびっくりしました。そして翌朝、しっかり固く握って新聞紙に包みました。そしたら、また同じことになりました。おにぎりの湿気はのりを巻いても新聞紙に吸い付くようでした。その後、アルミホイルに戻りました。まさか、おにぎりでもめるとは思いもよりませんでした。
このようにして、私は主婦業、家事をすることになりました。でも何かあると、すぐ彼が怒りだし、また命令口調になるのが気にいりません。思いだすと、このころから微妙に価値観の違いを感じるようになりました。ただ、その頃は違和感としてだけでした。
後で考えてみると、彼は彼の母親の父親の刷りこみの行為をしていたにすぎませんでした。彼が以前言っていたことは、彼の家ではお母さんの位置が相当低いらしく、彼の父親や彼の兄弟からはお母さんは日常的に低く扱いをうけているといっていました。自分だけが母親の見方とも言っていました。でも・・・・良く考えてみると、彼の態度はみんなでおとしめていたお母さんへの扱いそのものに思えてきました。反対に、うちの両親は、母も父も対等でした。やや母の方が元気だったし、父が温厚だったので、母の方が立場が上のようにも見えました。とにかく、あまり遠慮することなくものが言えたので、これが普通と思って育ったのです。価値観というものは、生まれ育った環境に大きく左右されることを痛感した出来事でした。男尊女卑ではなかった彼も、そういう環境に育ってしまって、簡単に抜けることができなかったのでした。
主婦業ってそんなに暇に見られているんでしょうか?しばらくすると彼は、私が1日やっていたことを話すように言ってきました。何やっていたかって?朝食、洗濯、病院、掃除、買い物、夕食作り・・・・そんなことですけど。「たったそれだけ?なにやってんだよ?暇だなあ」みたいな口調で言うので、いや、それぞれに時間がかかるんだよ。買い物だって歩いていくし、選ぶのに時間かかるし、私は早くできる方でもないし。もう、そこまで言われると、よっぽどひましていると見られて嫌になりました。あるときは一度仕事の出張先から家に寄って、私が何しているのか気になって見に来たと言っていました。別に私は夫が外で何していようと気になりませんでしたが、夫は私を監視していたいようでした。彼はその頃、何があったのだろう?私が彼を裏切るようなことはしてなかったし。彼は仕事ができなかったのだろうか?いや、そうでもない。自信がなかったのだろうか?そうも思えない・・・・ふと、歌手の河村隆一さんの奥さんが話していた「ソフト軟禁」を思いだしました。
その後、引っ越しをして、彼の職場や彼の実家にも近くなりました。はじめての土地でしたのであるとき、ふと見かけたポスターでヨガのサークルが近くにあることを知りました。健康にも良さそうだし、友達もできそうだし、入りたいなあ!と思いました。夫に、ヨガサークルに入りたいことを伝えました。そうすると、また渋い返事が帰ってきました。「そういうサークルだと人間関係で面倒だから」というのです。でも、入るのは私です。別にそれはそれで構わないと思っていたんですが、まあ嫌な顔までされて入るのは、気が向きませんでした。今考えると、彼の顔色を伺っていたんですね。当時、私は彼の顔色を窺って、遠慮しそして依存していたんですね。自分でも恥ずかしくなりました。
夫は実家が近いので、毎週土曜日は、実家で昼食を食べてきました。私は1ケ月に1回ほど、実家に行ってきました。実家に帰るとほっとするのか、だるくなりますが、そして良く眠れました。日頃の結婚生活の疲れもどっとでるのでしょう。1泊して、夫のもとに戻ると、なにやら不機嫌です。いつもむっとした顔で迎えられました。何か話をすると「実家に帰ると、生意気になる!」とも言われました。・・・・・生意気って同じ歳なんだけど。上下関係がひしひしと感じられました。実家に帰ると素の自分が出るので、そのままで戻ると、素の自分、つまり飾らない、遠慮しない普通の自分に戻るので、彼としては嫌だったのでしょう。私としては、意識してなかったのですが、彼からみると生意気に感じたのでしょう。後で考えると、素の自分って何だろうと思ってしまいますが、彼は素の私が嫌いなんだと思いました。我慢していた結婚生活は、その後だんだんと、重荷になってくるのでした。
結婚すれば、二人の価値観っていうのは違いがだんだんと分かってきます。カレーを作ったことがあります。多めに作って、次の日も実家では食べますので、同じことしたら「なんだよ。二日も同じメニューか!?」と言われました。「多く作ったけど、カレーは二日目がおいしいっていうでしょ」というと、「二日目なんかうまくない!」とあっさりでした。私は断然おいしいと思っているのに、彼の前ではあっさりと「カレー二日目うまい伝説」は崩れました。面倒なひとだなあ。私の価値観とは全然合わない。そんなことで怒るなんて、「あ~いやだ嫌だ。今は彼に食べさせてもらっているけど、だからって・・・・いばるなよ。とまだ口には出しませんでしたが、心の奥でそう思いました。
家で、こまかい夫でも、職場ではイケメンというのがあって、女性の同僚からはモテていたみたいです。「今日は横にいたなになにさんが、最近、俺に積極的だったぞ」といって、嬉しそうにしていました。「へ~よかったさ」私はあっさりです。私独自の感想なのでしょうか、夫が女性にもてるというのは不思議と嬉しいことでした。「私の夫は女性にモテるほど、イケメンで人気なんだ、家では面倒だけど」っていうのが理由です。「なんでそれが嬉しんだよ?」ときかれましたが、だってそうなんですから仕方ないです。「その人どんな人?」って夫と話して夕飯の話題になっていました。外では評判がよくても、家ではこまかいし、監視したいし、不機嫌な夫、そういうパターンって多いのかもしれません。
けんかは、いろいろしたのですが、これはというのがありました。私が、朝からなんだか具合が悪くて寝込んでいたことがありました。しばらく静かにしていると、回復するのですが、その日は夕方までだめでした。帰宅した夫に、どうしても体調がよくなくて夕飯、作れなかったと伝えました。うつが治り切っていなかったことを夫は知っています。でも、帰ってきた言葉は「飯は死んでもいいから作れよ」の一言でした。私の中でぷちっと切れる感じがしました。私はただの家政婦か?家政婦さんにだって言わないかもね。私にだってプライドがあるよ。あ~もう終わりだなあと思いました。そろそろ限界でした。
体調はまだまだでしたが、半日だけでも働いて、夫との限界が来ても自信がつくだろうと思って、就職口を探しました。夫も家計の足しに働いたらどうだ!と進めてきたのです。ちょうど行きつけのスーパーでクリーニング店のアルバイトを募集していたので、お店に話してみたら即OKというラッキーなめぐり合わせ。しかし、それが午後から夕方だったので、夫が反対しました。出直しして、職安へ行きました。ラッキーにも午前中だけの仕事が見つかりました。あるところでの図書室勤務です。期間は2~3ヶ月ということでした。でも、その期間できたら自信がつきそう!はじめての仕事でしたが、8時半から12時半という時間帯だったので、何とかできそう!と思いました。仕事は本の出し入れや、最新雑誌の並び替え、先生方の調べたい本のコピーなどでした。
以前、書店でもアルバイトしていたので、本を扱うことは好きでした。私以外は職員の方で、ベテランの方ばかりでした。毎週、入れ替わる専門雑誌を並べ替えたりして、その表紙を見ていると、時世がわかるようでした。書籍の入れ替え、書類を閉じて本の制作もしました。比較的大きなところだったので、データ部と書籍部に分かれていました。あるとき、データの書類を倉庫に持っていくように言われました。書類といえども、重くてカートに載せてゆっくりと運びました。でも、途中の段差でぐらついたときに、書類を足首におとしてしまったのです。アキレス腱の部位だったので、歩くのもつらい痛みでした。同じ敷地にある病院に行きまして、アキレス部位の治療を何度か受けました。労働期間中の怪我というのは、パート、アルバイトといえ労働災害保険が適用になります。会社側が負担することになっています。当然、労災の対象になると思っていたのですが、なぜか会計で負担分が出てきました。労災ではないかと受付に話したら、そこから上司に電話連絡が行きまして、なにやら話していたのですが、結局負担することになりました。後で、上司にそのことを告げると「他の人なら根元さんの2倍働けるのにねえ」という答えが帰ってきました。他の人の半分しか働けない私に労災なんてということでしょう。労働災害は・・・・会社にとっては不名誉なことだったので、もみ消されたのです。それよりも、他の人なら私の2倍働ける!といいきれる上司に腹が立ち、情けなく思いました。
そんなこんなで、怪我もありましたが、3か月もなんとか働ききることができました。まだうつでしたが、できた~!そんな自分をほめてあげたいという気持ちがありましたね。ちょうど夫も学校が夏休みだったので、一緒に3週間休みをとりました。そしたら、夫から「俺が休んでいるからって、怠けるなよ」と言われました。一休みして何が悪いのか?そして夏休みが終わり、職安に行きました。前回は偶然にも1回で、パートが見つかり、そして就職できましたが、これはほんとにラッキーでした。何回も通ってもなかなか見つからない方も大勢いますから。職安でまた探しましたが、この日はなかったので、そのことを告げました。そしたら、夫にひどく怒られました。「無いわけがないだろ!探す気がないだろ!」と。「いやほんとになかったんだよ」といっても信じてもらえません。その上、その夜は「お前なんか何にもできない!野垂れ死にだ!」とまで言われ、もうここまで言われて一緒にいる意味はないと思いましたね。
いよいよ、離婚を本気で決意しました。以前一度、別れようとして家に帰ったことがありました。でも、夫に説得されて戻りました。しかし今度は本気の本気です。なめられてたまるか!です。今から18年も前の9月2日のことでした。なんで覚えていたのでしょう?前日、9月1日の昼間9月になっても29度でまだ暑いなあ~と記憶があったのです。この日は平日でS市から家までちょうど昼間2本ほどのバスの便があったので、涙をこらえてバスに乗りました。このバスに乗るのも最後かあとか、なんでこんなことになったんだろう?と悲しさと情けなさでぐしょぐしょでいっぱいでした。夫婦は、初めはうまくいかなくても、だんだんとうまく行く、とか、1年我慢すればなじんでくる!とか自分なりに一緒にいる意味を考えていましたが、限界点もあるよねと感じていました。
離婚を決意して実家に戻った私でしたが、そういえば、離婚届けはその年の春に提出していました。実質的に分かれる前でした。もともと二人とも結婚という形式にはこだわりがないとそう思っていたので、結婚届も結婚した年の夏に出し、離婚届けも翌年の春には出していました。結婚届を出した時、7月7日だったので、七夕だったのを覚えています。離婚届けは、当時住んでいたS市に提出しました。離婚届けを持ってきました、というと職員が二人振り返ってちらっと見られましたが、気にせず、淡々と提出しました。離婚届けの欄には証人が二人必要でしたが、成人で、離婚の事実を知っている人なら誰でもいいのです。署名、押印します。これは私の親にお願いしました。離婚届けを出した時、これで、実質的にいつ離婚してもいいという覚悟ができました。
家に戻って、引っ越しもして、数日後に彼から電話がきました。用件があったのですが、二人とも傷ついていましたので、喧嘩となり、お互いの感情のぶつけあいとなりました。しかし、これが最後の喧嘩となりました。それから、当分の間泣いていたと思います。負の感情が吹き出してふきだして、泣くだけ泣きました。その時は立ち直れないほどのダメージでした。しかし、その後、身の回りをすっきりしようとして、断捨離を始めました。その頃、断捨離とはまだ言われてなくて、身辺整理とか、そんなものでした。いらないものや辛い思い出のものを思いきって処分しました。しかし、始めてみると、だんだん夢中になってきて、いつのまにか没頭していました。そして、気分も幾分すっきりとすることができました。父母も離婚に対してうるさく言わずにいてくれたのが助かりました。
断捨離が済むと、気持ちもやっと落ち着いてきました。そして、このまま働いてステップにつなげようと思いました。運よく、アルバイトで、ある生産工場で検査の仕事につくことが出来ました。検査業務とは初めてで、慣れない工程にどきどきしました。時には生産ラインにでることもありました。ところが、やっと慣れてきたところで、疲労がマックスになりました。帰宅途中、バス停まで歩くのですが、今までの悲しみも蘇ってきて、涙が出てくるのです。それがほぼ毎日のごとく、帰宅途中に涙。帰宅途中は暗かったし、人も歩いてなかったので泣いても誰も見ていなかったので、涙はよく流しました。やがて、胃痛もともない・・・・うつが再発して・・・・やめることになりました。
だんだんとすっきりしてきましたが、ここで、自分の生き方や幸せについて再度、考えさせられました。もともと、ませていたので、小学校5年生の時にふと「自分ってなんのために生まれてきたのだろう?」「何で生きなければならないのだろう?」「自分の使命ってあるのだろうか」ってなことを考えていたのです。でも、こんな不安を考えている小学生は、他にはいなかったので・・・・・、人には言えませんでした。そして、21歳くらいの時にですが、やはりふと「ああ~自分は幸せになるために生きてきたんだ」と悟りました。簡単ですけど。じゃあどうしたら幸せを感じていられるのか?ということを模索してきたのです。なので、ここで、この時に戻って、自分の幸せ探しを始めたのですね。
あるとき、デパートやホームセンターに行くと、香りが流れてくることに気がつきました。柑橘系の香りや花のような香りでした。香りが流れてくる方をみると、「アロマテラピー」とありました。アロマ?香り?どんなものなんだろう?とその時、小さな小瓶に入った液体を眺めていました。強いかおりが漂って、鼻をちかづけると・・・むせました。でも、気になってしまい、ホームセンターに行くたびにそのコーナーに立ち寄りました。アロマテラピーで使う精油は濃縮されているので、ちょっと鼻から遠ざけてかいでみるといいようです。オレンジやレモン、ペパーミント、ベンゾインという香りが心地良かったことを覚えています。そして、その後購入したのが、レモングラス、ローズウッド、ペパーミント3本それぞれ3ml入っているセットでした。小さな幸せを感じた時でした。
そのセットと安息香(ベンゾイン)を買ってきて、部屋でアロマポットにいれて芳香浴をしてみると、なんとも気持ちが良いのです。深い呼吸ができました。そして精神が落ち着く・・・自分の中心部から整う感じがしました。まさか植物の力をこのような形で受け取るということ思いもよらず、かなり新鮮でした。植物の香りに癒されるってこういうことなんだ、すごい!と思いました。そして気持ち良いと感じる自分がいることもすごい!と思いました。植物の香りでこんなんで癒されるとは思っていませんでしたので。それならということで、父母にも試しに香りをアロマポットで試してしてもらいましたが、なんと意外にも好評でした。久々に家族に笑顔がやってきました。
家族が喜ぶと、友達や誰かにあっていても、そういう話をしてしまいます。アロマテラピーって楽しいよ。落ち着くよ。癒されるから。などとすすめていました。友達は、アロマテラピーは今、流行っているからね~という反応でした。そう、アロマテラピーは1999年頃からブームになってきました。あちこちのデパートやスーパーでもアロマの精油がおかれ、香りが漂ってきました。その中には、合成のものもあったのですが、本物の香りを求めて、いろいろ嗅ぎまわっていたので、微妙なものをのぞいて、だいたい本物か、そうでないのか、区別がつくようになってきました。そして、アロマテラピーは不器用な自分でも楽しめる健康法です。細かいものを作るのが面倒な私でものんびりと楽しめました。そして、いつか仕事にできたらなあと思っていたのです。
とはいえ、働かないでいるのも、不安だったので就職するために何社か履歴書を送ったり、面接を受けに行きました。30代も半ばになっていたので、受験できるところもあまりなかったのですが、ことごとく落とされました。履歴書を何枚も書いては戻されたり、1次2次の面接までいってももう少しというところで結果は出ませんでした。あるとき、面接まで行った会社での会話でした。何かの質問に正直に答えると、面接官が履歴書の隅にバツを付けるのがすっかり見えました。あ~これで落とされたとわかりました。そして落ちました。他人からジャッジされるというのはショックでした。そこで思いました。会社に就職して生きていくというのは、ずっと他人からジャッジされつづけることなんだろうと。もちろん、それで多くの人が働いていますし、私もそうだったのでわかります。しかし、その時の気持ちはもう、しばらくはジャッジされたくないなあと思ったのです。
面接で落とされてから、またいろいろなことがあって、就職活動は棚上げにしました。しばらくは、アロマテラピーで今までの自分を癒し、内面の整理をしようと思いました。自分という存在価値や幸せに生きることについて考えていました。結婚生活での出来事は・・・たぶん、自分で自分を押さえていたり我慢していたり、自分をいたわらなかったから、相手にもそのようなことを言われたり、されたりしたのかなと感じました。自分をのびのびと解放することが大切。そしてアロマテラピーを生活に取り入れると、小さな喜びと小さな幸せが生まれましたので、うん、やっぱりアロマテラピーはいい!と思いまし多。友達に流行だよね~と言われて、自分でもん~流行りに乗っているのか?と思いましたが、でもいい!その時どのくらい続けるのかは全然わかりませんでしたが、しばらくやってみようと思って・・・・・今まで20年経ちました。(*^^*)
離婚は失敗・・・・と思いがちですが、人生の中でみると一つの出来事であって、ドラマであって、ほろ苦いスパイスかもしれません。いろいろ体験すると自分にも人生の味わいが出てきたり、同じような相手の心がわかるようにもなりますよね。人生は人の数だけいろいろあるし。他人にジャッジされる必要は決してありません。そして、自分や人に完ぺきを求めるのはやめにしました。私はずいぶん不器用な人間ですが、不器用でもそれなりに歩いていけること。離婚して、不安でよろよろしていても、自分なりに休みながら、癒されながら、自分のペースで歩いていくっていうことですね。完璧を目指さない個性豊かな、自分だけのドラマ・・・それが人生かなと思っています。